欲を野放しにしない |
| “人は欲を決して満足させることはできない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときは気も狂うばかりとなる” “こうしたい” という願いは誰もが持っています。そして、願いが叶えられた時は ”あーよかった。うれしい” と思いますが、また次にすぐ、欲しいものが出てきます。 「求不得苦」は、望むものが手に入らない、ということではなく。一つ手に入っても、またすぐに、別に欲しいものが出てくる、ということです。ちょうど、おなかが減っている時、何かを食べればその時は満足できますが、半日もすればまた、食べたくなるのに似ています。 「少欲知足」という言葉があります。 「少欲」とは、欲を小さくするというのではなく、欲の数を少なくすることです。一つぐらいなら何とかなるかも知れませんが、あれもこれもと求めすぎると、あれもだめ、これもだめとなって、一層不満が募ることになります。 欲は、できる限りしぼってゆくことです。入学試験がいい例です。目指す学校に入りたければ、テレビを見たり、ゲームをしたり、或いは、どこかに遊びに行きたいという思いを抑え、受験勉強に専念しなければなりません。 自分にとって今何が一番大切なことか、それを考えてゆくのです。 「知足」は、足るを知る、つまり、今あるものを喜ぶ、ということです。特別いいことはなくても、自分の身の回りにあることで喜べるものを見つけてゆくことです。 “喜べることなんか何もない”と言われるかも知れませんが、たとえば目が見え、耳が聴こえ、話ができるとなれば、これは大変ありがたいことなのです。また、朝元気に起きられることも、本当は喜ぶべきことなのです。 大学時代のある授業で、”人間にとって一番大切なことは何か” と問われました。色々理屈を考えて意見を述べましたが、先生は ”全部違う。一番大切なことは、食べて、寝て、出すことだ” と言われました。拍子抜けしましたが、たしかにその通りです。一っでも欠けたら、人間は生きられません。逆に、これが不自由なく出来ることは、大変ありがたいことなのです。 “そんなことはあたりまえ” と思っていたら間違いです。これらのことに不自由しておられる方も世の中には大勢おられます。夜眠ったままあちらの世界に行ってしまわれた方もあります。今こうして生きていられることは、実は大変ありがたいことなのです。 ないものを探して不足を言うのではなく、今あるものの中から喜べるものを探してゆくことです。 なかなか出来にくいことかも知れませんが、ありがたいことが一つ見つけられたら、今日一日はそれを喜び、それ以上求めないことです。 “年を取って段々耳が聴こえにくくなった” とおっしゃる方がいますが、それも考えようで、悪口を言われても聴こえなければ、腹も立ちませんから、いいのではないでしょうか。 あれもこれもと欲の数を増やすと、あまりいいことはないように思います。それに、欲というものは次から次に進み、変化してゆきますから、一々追いかけていたらきりがありません。一つのことが成就してもまたすぐ、別の欲が出てきます。ですから、何か一つ、”ありがたいなー” と思ったことを大切にしてゆくのです。そのことが「満足」につながりますから、安心でき、落ち着いた心になれると思います。 最近、小さな子どもが殺されたとか、人をだまして大金をもうけたとか、いやなことが続きますが、こうしたこともやはり、我欲が強いからだと思います。こんなことが少しでも減る世の中にしたいものだと思います。 “欲深き人の心と降る雪は つもるにつけて道を忘るる” 欲にまみれていると、降る雪が田も畑もすっぽり覆ってしまうように、人としての心が迷ってしまうという歌です。 “神ほとけ信ずる人の心にも 同じく宿る欲の神様” ああしてほしい、こうしてほしいと人間は神仏に願いを掛けます。信仰の姿として否定出来ませんが、心の底に欲の神様が宿っていたら、それは本当の信仰と言えません。取引になってしまいます。 “おそるべし欲のほのほはげしくて わが身も家も人も焼くなり” 所詮人間は、欲を離れて生きることはできません。しかし、どこかで、ある程度のところで欲を切らなければなりません。切ろうと思っても、次から次に出て来て簡単には切れませんが、これを切るのは “ありがたい” という心しかありません。 世の中生きていて特別 “ありがたい” と思うことに出くわすようなことはそんなにありませんが、日常の中に “ありがたい” ことはあるのです。それに気付いていないだけなのです。 “ありがたい” という心が一つでもあれば、欲はあってもそんなに野放しにはならなくて、ほどほどの所でとどまると思います。 ”もっと、もっと” という欲を満足させなくても、ある程度のところで ”ありがたい” と妥協できるのではないかと思います。 法音より |