煩悩を押しとどめる道 |
| “貪りは満足を得たい気持ちから、瞋りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる、”と言われます。 生きている以上は仕方がないかも知れませんが、次から次に色々な事が起きてきます。嬉しい事もありますが、困った事、苦しい事もあります。一つの悩みが消えてもすぐに新しい悩みが生まれます、心の安まる時がありません。一つひとつ順番に来れば対処の仕方もありますが、時として一度に二つも三つも重なることがあります。 そうした煩悩をどうしたら克服できるのか、お釈迦さまが「この世界は苦である」と言われたことを受けて、先師たちはいろいろ努力を尽くして来られました。 仏教には三蔵があります。お釈迦さまが説かれた教えを「経」と言い、二つ目に法律に当たる「律」があり、律はお釈迦さまの時代の教団内の規則から生まれたものです。三っ目の「論」は、一般で言う論文です。お釈迦さまの教えの主要な問題を論ずるものです。その中には、悩み・苦しみの正体を明かし、その克服法を研究されたものもあります。 「論」には色々ありますが、その中に「中論」があります。紀元前二世紀(2200年前)の頃、竜樹菩薩によって著されました。この方は大変頭のいい方で、一度聞いたことは二度と聞き返すことがなかったと言われています。 中論の中は、真ん中ということです。有と無の存在の中間でもあり、右・左の真ん中とも言えますが、竜樹菩薩は「空」という風に言っておられます。この世界に存在するものは、有るように見えるけれども実際には無い、という考え方です。 私たちがいろいろ悩み、苦しんでいることは、それは“有る”と固定して見ているからで有るだけで、よく調べてみればみな「空」、つまり、実体の無いものだ、ということです。 実体が有るというのは、いつまでも変わらず存在するものです。ところが、そういうものは世の中に何も無い、と言うのです。“今、苦しい、辛いと思っていることも、実際は一時的なもので、仮の姿である”と言うのです。 この世界をすべて「空」と言うならば、私たち自体も「空」であり、実体が無いことになります。 私がいると言っても、今の姿は、ご先祖、ご両親、そして、時間といった様々な因縁の集まりとして有るだけで、絶対の存在とは言えません。また、昨日の私と今日の私、そして明日の私は、ちょっと見た目には同じに見えても、厳密に言えば違う私です。因縁によって今有るだけですから、因縁が一つでも変われば、たとえば、時間という因縁が過ぎ去ると、無くなってしまいます。この世界は、そういう空しい人間の集まりなのだ、と言います。 しかし、たとえそうであっても、それを言うだけでは進歩がありません。龍樹菩薩の偉いところは、最後に、慈悲の実行を説いておられる事です。“人は皆、そういう空しい存在であるから、自分の出来ることで人を喜ばせてゆこう、慈悲を施してゆきましょう”と言われておられます。 私たちが色々なことに悩み、苦しむのは、それらの煩悩を自分の中に取り入れてしまい、自由にさせるからです。煩悩があっても、中に入れないようにすればいいのです。そのために、慈悲の行ないが必要となるのです。 煩悩は、外から内に入ってくるものです。一方、慈悲の行ないは、内から外に向けて働きかけてゆくことです。その行動によって、中に入ろうとする煩悩を押しとどめることができるのです。 中論の説く「空」に対して、“空と言っても、私たちが今いるのは確かな事で、この事実をどうとらえるのか。空、空とばかり言うのはおかしいのではないか”と考える人々が「唯識論」を作りました。 唯識の識は心です。心が認めたものだけが存在する、という考え方です。 一つのことをどう考えるか、それは自分の心の認識による、というのが唯識論です。心が認識しなければ、何も存在しないと同じ、と言うのです。悩み・苦しみも、心が認識するから辛く感じられるのです。 大体私たちは、物事をいい方に解釈するのが苦手で、悪い方に解釈することが多いのです。そうして一層、悩み・苦しみを大きくするのです。取越苦労がそうです。みな、自分の心が作り出すのです。 その原因は“心に末那識があるから”と言います。つまり「ワタシガ」という我の心です。 “ワタシガ”と我を主張しても、この世の中に十の内、一つか二つしか思い通りにはなりません。だのに「生まれつきの心の病気」があるから、苦しみから逃れることが難しいのです。 煩悩を克服するために、中論は慈悲を説きました。唯識論はさらに一歩進めて、六波羅蜜の実行を勧めています。自分の口や行ないを慎み、布施(与えよう物でも心でも)・持戒(生きよう人間らしく)・忍辱(耐えようどんな事にも)・精進(勤めよう自分の仕事に)・禅定(落ちつこう息を整えて)・智恵(目覚めよう誠の道に)の六波羅蜜を実行して、ワタシガ、という我を変えるように教えています。 生きている以上、煩悩があるのはあたりまえです。辛いこと、苦しいことはあるけれども、それはそれとして今、自分の出来ることで人を喜ばせてゆくのです。悩み・苦しみが大きいほど、物やお金はなくても、言葉で、笑顔で、身体で施しを実行してゆくのです。ばせてゆくことが、煩悩を克服する一番の方法です。 法音より |