他人への思いやりが本当の利他 |
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お釈迦さまの教えには、大きく分けて大乗仏教と少乗仏教があります。 わが国に仏教が 《 五三八年 》 入って間もないころには、ほとんど少乗仏教の教えが主流でした。 少乗仏教では、肉食妻帯はダメで、僧侶が守らなければならない二百五十の戒律がありました。ところが、日本の気候風土では、二百五十の戒めにはも守ることのできない戒めがいくつかあるために、そのことに心を痛めた天台の宗祖、伝教大師最澄上人 ( 七六七〜八二二年 ) は、広めるためにかえつて妨げになると大決心をされ、弘仁九 ( 八一八 ) 年、自ら小乗の二百五十戒をすべて棄捨することを宣言をされ、そこで伝教大師は、大乗菩薩戒 ( 五十八戒 ) を定められれました。このことは三国 ( インド・中国・日本 ) わたる仏教思想史、とくに戒律思想の上では特筆大書すべき一大事件であったと思われます。 そのことによって、たとえば 「 殺生してはならない 」 という戒めが 「 ムダな殺生をしてはならない 」 しいう具合に変わっていったのです。伝教大師の勇気と決断があったからこそ、仏教は現在までも継承されてきました。 ところで大乗と小乗の中の 「 乗 」 とは、人びとを運んで涅槃の岸に到達させるという意味です。言い変えれば、人々を正しい方向に導くということです。 その大乗と小乗を現代に例えれば、バスとミニバイクの違いではないかと思います。この二つのバスもミニバイクも人を運ぶ乗りものですが、ミニバイクは自分一人しか乗ることができません、これが小乗仏教なのです。小乗仏教では救われるのは自分だけです。自分一人が涅槃の彼岸に到達するということです。自分が技術をみがき、法規を学び、ライセンスを取得しても結局自分しか乗れないということです。その点で、小乗仏教は大きな広がりをもたない消極的・形式的だといえます。 これに対して、大乗とは自らが技術をみがき法規を学び、ライセンスを取得したとすれば、まったくそのような学ぶ力もなければ技術をみがく方法さえ知らない人をも、目的地へ運んであげることができる、バスや飛行機や電車などの大きな乗物です。一人の人が悟りを開いたことによって、多くの人を導くことのできる精神が大乗仏教の教えなのです。自分だけでなく、他人もという考えですから、大乗仏教には 「 利他 」 の精神があります。いいかえれば、よりヒューマニティに富んでいて、人々の間に広がりをもつ積極的・活動的であるということです。いずれにしても、大乗仏教は、「 利他主義 」 の立場から、人間をいかに救済するかを根本にしています。ですから、伝教大師も 「 己を忘れて他を利する 」 と申されております。 伝教大師の教えのおかげで、鎌倉仏教の祖師たちである法然上人・親鸞上人・道元上人・栄西上人もちろん日蓮上人もこの大乗の精神にもとずく教えを確立されたのです。ですから日本の仏教は、ほとんどが大乗による他人の救済を重要視して教えを広めてきたのです。 しかし私達はこの「 利他 」をそれほどむつかしく考える必要はないと思います。たとえば何が 「 利他 」かといえば、私達はまず母親の姿にそれを見ることができます。母親はそれこそ「 己を忘れて 」 我が子の為につくします。子供を授かり、育てるということが、すでに「 利他 」なのです。母親から与えられた利他の心が、我が子に受け継がれて、やがてこの心が兄弟の為、家族の為、夫の為、妻の為、友達の為、みんなの為と、利他の心が広がっていき、やがて社会の為にとなっていくのが、社会性なのです。社会性とは自分以外の人への思いやる心とでも言えるのでしょう。 しかしこのごろは、まず自分の事を主張して、はっきりものを言うことが正しいことだと思っている人達がたくさんおられます。個人主義ならまだ救われる部分がありますが、利己主義に固まった人は救いようがないように思われます。みんなが自分を主張したら、エゴとエゴのぶつかり合いだと思いますし、「 自分さえ良ければ 」 と思っている人々の社会になったら、世の中成り立たなくなってきます。 人生には、志を立てる 「 立志 」 という言葉があります。だれでも自分は将来こうなりたい、ああなりたい、こうしたい、ああしたいという夢があります。その夢を実現するために一生懸命努力するのですが、ところが、最近の立志伝は少し違ってきて面白くなくなってきて、どれもこれも、みんなお金もうけ主義の自慢話ばかりになってきました。そしてお金ができ、◯◯◯になるという、とんでもない話もあるようです。同じ成功者でも、アメリカの場合は、お金が出来ると農場を買い、手広く農業を経営するそうです。アメリカで農場を買うことは成功者のシンボルだからです。今の日本を見ていると何か情けない気持ちになってきます。 やはり立志伝というのは、貧しさに耐えながら、いかに人の為に働いたか、あるいは、いかに人に役立つ事業を興したか、そういったものでないと面白くないし、又、人の励みにはなりません。子供の頃、親から聞かされた立志伝は幾つになっても心に刻まれて、一生忘れることはないものです。 しかし、今どきのお金もうけの自慢話や下品な立志伝なんて何の価値もありません。お金だの、地位だの、学歴だのというのは本当のところどうだっていいような気がします。やはり多くの人は、人間として正しく立派に生きるにはどうしたらいいかという話が聞きたいのです。 戦前には学校で 「 修身 」 という授業がありました。修身というと、青臭いと思う人があるかも知れませんが、立派で正しい生き方をする人の事を学ぶのですから、悪くはありません。 たしかにねじ曲がった戦前の軍国主義はどうかと思いまいが。でも今のような歪んだ時代こそ、戦前の修身に代わる 「 情操教育 」 が必要になっているのです。 大乗仏教のいう他人の救済とは、何も大げさな事ではないのです。むしろ、普段の生活において、家族や他人への思いやりをもち、それを積み重ねていくことが本当の利他ではないでしょうか。 死んで残る財産は、人に悪い事をしたことと、人に良い事をして喜んでもらったことだけが、しっかり間違いなく残ります、家族やとくに他人に思いやりを持ち、喜んでいただけるようにご精進下さいませ。 |