あ っ た か ど ん ぶ り |
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中村君江様 四十七歳主婦 東京の夕暮れも意外とはやいものだ、と感じながらも急ぎ足で帰るわたしの胸はきまって、いなかの囲炉裏をなつかしんでいた。福島のやまあいの小さな村で生まれ育ったわたし。十人家族の賑やかさが、あかあかと燃える囲炉裏火とともにわたしの胸で燃え続け、帰りたい、というつぶやきとなってわたしを何度も立ち止まらせはじめていた。 その年、わたしは保母として上京し、板橋区の片隅でひとり生活にはいった。三畳の部屋が布団一枚でいっぱいになってしまうことに目を見張りながらも、保母として精一杯仕事に励んでいた。 先生と言えなくて、「 てんてい 」 と、呼ぶこどもたち。 「 おはよう 」 と、言えなくて、「 おたよう 」 と、言うこどもたち。 わたしがはじめて受け持った一歳半から二歳のこども七人。しかし、ひとりで七人のこどもの世話は二十歳のわたしにとって、仕事と割り切るにはあまりにも重すぎていた。 オムツを替えて給食を与え、寝間着に着替えさせて昼寝をさせ。なにごともひとりひとり順番にやるものだから、待っている間にころんでこぶをつくってしまう子、ぐずってわけもなく泣きだす子。ワッサワッサと歩きまわっては何でも拾って口の中に入れてしまう子。わたしに甘えて鼻をならしつづける子。いつの間にかわたしは立って歩くより腰をかがめて歩くほうが楽になっていた。 春が過ぎ、夏が過ぎたころには、わたしの体はただただ布団のくもりだけが欲しくなっていた。朝、目がさめず遅刻すれすれに保育所に駆け込むことも多くなった。そして、周りの先輩たちの間にも、何かすっきりしないものを感じ始めていた。 「 くれぐれも怪我のないように 」 これが先輩たちがわたしにかけるたったひとつの言葉。だれもが一生懸命に仕事をしていたのだから、人のことまで気がまわらなかったのかもしれない。殺伐としたなかで、わたしはより無口になっていった。話すことがなくなったぶん、思いだすことが多くなった。ふるさとの山がじっとわたしを待っているように思えて、気がついたら荷物の整理をはじめていたこともあった。 そんなある日、遅番の仕事を終えて帰ったわたしに、大家さんのおばあちゃんがどんぶりいっぱいのおでんを持ってきてくれた。「 ありがとう 」 と、差し出したわたしの手の冷たさに、おばあちゃんは黙ってうなずいて、去った。わたしは、どんぶりのあったかさに加えて、おばあちゃんの手のあったかさに泣けた。次の日、どんぶりを返そうとしていたわたしに、おばあちゃんが今度はどんぶりいっぱいの豚汁を持ってきてくれた。「 おいしそう 」 と、大声をあげながらも、 ・・・ どうしてわたしだけに? だって、アパートの住人はほかにもいるじゃない? と、首を傾げた。おばあちゃんはそんなわたしに気づかないように、黙ってうなずいて帰って行った。フーフーと息をはいて、ズーズーと豚汁をすすっていると、ふと囲炉裏ばたにいる気持ちになってきた。母がいて祖父母がいて、弟と妹がわたしをみてて、父が忙しそうに明日の用意をしていた。 ・・・ 帰りたい。 その気持ちが、・・・ 会いたい。 に変わり、・・・ あした、がんばる。 になるのに、そう時間はかからなかった。 わたしは家族の期待を受けて保母になり、東京にきたのだ。その家族に心配はかけられない。たとえ殺伐とした仕事仲間でも、いつの日にかは笑って肩をたたきあえる仲間になれる時がくる。それまで七人のこどもの母親がわりとして、明るい先生になろう。わたしならそれができる。そのために東京にきたのだ。いくつかのどんぶりをかかえて大家さんの玄関に立ったわたしに、おばあちゃんは両手をパンとならし、「 やっとはじめて会った時の、あのいきいきとした顔になったね。若い時の苦労は買ってでもしろって言うから、がんばるのよ 」 と、言った。 わたしはあのあったかどんぶりの中には、いくつもの、わたしを思う気持ちがはいっていたことに気づき、他人のやさしさを思い知る、心のゆとりが持てるような人にならなければと思った。 それからのわたしは気が沈むことがあると、きまってどんぶりものを作り、いまは亡きおばあちゃんを偲びながら、体の中に風を吹きこむことにしている。 |