悩 む べ き 悩 み |
| 石川上人 |
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毎日の新聞を見て眼を引くのは、親が子を、子を親が殺したという凄惨な事件は言うまでもありませんが、幼児虐待による殺人とか、さらには、理由のいかんに関わらず大事な生命を自らの手で絶つというのは、なんと哀しい限りです。
まして薬物による自己逃避などを見ると、現代人は悩むべき悩みと、そうではない悩みとを混乱し、誤解しているとしか思えないのです。
いわゆる、悩みの捌け口を、物や他人にしか求められない現代の人々、その人達にとって、今こそ考えなければならないことは、自分が人間であるという性に対する悩み方であります。
例えて言えば、私達が現在の家庭や仕事で、人間関係などに悩みを感じた時、はじめは意欲的にその悩みを解決しようと試みます。つまり、自分自身の能力・状況を最大限に活用して、なんとかしようとするのです。ある時は自分自身の判断を中心に、又ある時は回りの人々の意見を聞いて決断へと向かうのです。 しかし、決断すべきことが一つでなく、いくつも生じた時、最初の悩みが重なるということがあります。 その時、私達は悩みの重みを直感的に判断し、避けられない問題であった場合は、自分自身がそこから逃げることを思いつくものです。 それは、今まで自分自身が、悩みに向かって積極的に考えていたことから、今度は逆に悩み方が大きくなり、悩みが、自分自身を追いかけてくるという動揺によるからです。悩みの速度は、どんどん早くなり脹れ上っていきます。そして、とうとう私達自身が悩みに追いつめられた時、私達は自滅の形を最後の救いのように思うのです。 さて、こうした心境は人間であれば、誰でも一度は体験するでしょう。それは、私達が悩みというものを、汚れ物のように、他から付着してくるものと思い、自分自身とは別のものという考えを強く持っているからです。 とろこが、 『 法華経 』 が私達に訴えていることは、悩みをこのように見るのではなく、なぜ、こうした悩みを持たなければならないのか、という反省から出発しているということなのです。 悩みとは、元来、自分自身で決定できないところに生ずるもので、こうした意味から見れば、私達は、なに一つ決定できずに生きているものと言わざるを得ません。 それは、私達の身体一つとって見ても分かるように、私達は自分自身でどこどこのどういう処に生まれたい、ということすら決定できないではありませんか。そればかりか、自分の顔や形は、母親のお腹から生まれた時に与えられたままです。もっとも最近は、整形手術により繕うことができるようですが、男女の性別に至ってはどうすることもできません。 そうしますと、決定できないものを決定しようとするところの悩みを、まるで他からの侵入者のように見るのは、自己過信と言わなくてはならないでしょう。 ここに、 『 法華経 』 は、 「 悩み 」 を 「 悩み 」 として受け止め、悩みが自分自身のどこからきているのか、という自己の反省を教えるのであります。そして、それは、自分自身を静かに見つめるという人間の姿からはじめられるべきでしょう。 その上で、悩むべき悩み方を、自分自身の中に見い出せた時、自分自身の持っている 「 仏種 ( 佛果を生ずる種子、即ち菩薩の修行のこと ) 」 を、どれだけ忘れていた私達であったかということに気がつく筈です。そうなると、 「 今まで自分は、何を考え、何を見つめてきたのか 」 という反省と忍耐に少しの時間でも費やす気になるものです。 そこには、他の人々がどう生きているかというような問題は出てきません。すべて自分自身の生き方が、自分を規準として問われることになるからです。その意味では、非寛容な生き方と言われる人もあるかも知れませんが、それは、他の人々に対しては、寛容な態度へとつながるものなのであります。 |