信頼される社会人を目指すためには、どんな条件が必要とされるのか。中国古典はさまざまな角度からこの問題に答えているが、それをせんじつめると、能力と徳、この二つにしぼられていくようだ。 与えられた場で与えられた責任を果たしていける、その程度の能力がないと、さすがに社会人として具合がわるい。だが、これはあくまでも最低の条件であって、できればそれにプラスして徳を身につけることが望まれるのだという。 では、徳とはなんぞや、ということになるのだが、これはもっぱら人柄とか人格にかかわってくる問題であって、一口で説明するのはむずかしい。というのは、幾つもの要素から成り立っていて、単純なものではないからである。 ただし、徳といえば、まっ先にあげられる要素の一つに、「仁」がある。「仁」とは、わかりやすく言えば、思いやりである。あるいは、心の温さと言ってよいかもしれない。たしかに、これが欠けていたのでは、まわりの信頼など得られないであろう。 この「仁」に近いことばに、「恕」がある。「恕」をしいて訳せば、思いやりという意味になる。 「仁と恕はどう違うのですか」と言われると、答えにくくて。「それは粟と黍の違いのようなものでしょう」と言って煙に巻きたいところだが、納得してはいただけないだろう。 もう少し考えるてみると。 白川静さんの『字統』という字典によると、「仁」という字は、敷物の上に人がゆったりと坐っている姿をあらわしているのだという。なにしろ敷物に坐っているから、ぽかぽかと温かい。そこから、温かいとか親しみあうと意味が派生し、やがて、孔子が現れるに及んで、これを最高の徳にまで高めたのだという。 たしかに孔子は、この「仁」を徳の中心に据えて、深い意味をもたせようとしたことは事実である。しかし、私の主張する「仁」とはこういう意味ですよと、その内容についてはいっさい定義していない。 ただ、弟子たちから、「仁とはどういうものですか」と聞かれたとき、相手のレベルに応じて、さまざまな答え方をしているだけである。 たとえば、理解のにぶい弟子に対して、「人を愛することが仁だよ」と答えたかと思うと、口の軽い弟子に対しては、「仁者とは口が重いものだよ」と答えたりしている。 そのかぎりではわかりやすいのだが、あらためて、「はて、仁とは何か」と考えてみると、よくわからなくなってくる。そのため後世、たくさんの研究書や解説書が書かれて、それぞれに定義を試みてきたのだが、それがまた、いっそうわかりにくくさせる原因ともなってきた。 さらに、「仁」と「恕」の関係については、もう一つ困った問題がある。 やはり『論語』に、弟子の一人から「先生の信条としていることばはなんですか」と聞かれて、「それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すなかれ」と答える有名なくだりがある。自分がして欲しくないと思っていることは人にもしないこと、それが恕なのだという。つまりは、思いやりということにほかならない。 それはよいのだが、じつは「恕」を説明しているこの「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」ということばを、孔子は「仁」を説明するときにも使っているのである。「仁」もまたそういうものなのだという。 そこで私の理解なのだが、「恕」とは相手を思いやる心、これでよい。もう一つの「仁」とは、思いやりも含んでいるが、意味する範囲がもっと広い。しいて言えば、お互い人間同士じゃないかという人間としての共感、さらに連帯感のようなものを指している。こう理解すれば、当たらずと言えど遠からずではないかと思われる。 いずれにしても、この「仁」や「恕」が姿を消してしまったのでは、世の中がぎすぎすして生きにくくなる。徳がしっかり息づいている、そんな社会であってほしい。 |