一時期、教師をしたことがある。先輩が教えてくれたアドバイスの中で、忘れられないものがある。 「『いつも』という言葉は、ほめるときに使うといいぞ。叱るときに使うと、まったく駄目だ」なるほど、そうだ。君は、いつも教室をきれいにしてくれているね。ありがとう」たまにしか掃除をしない君も、この言葉に心動かされないわけにはいかない。そして、本当に「いつもそうしょう」と思う。 逆に、叱るときに、これを使ったらどうだろう。「君はいつも遅刻して」などと言ったら、「いつもではないよ」と相手はふくれるに違いない。折角の忠告が、まったく役にたたなくなるのだ。 また、こんなアドバイスももらった。「人よりちょっと優れているのは、実は、ちょっとではないんだよ」その小さな差を目ざとく見つけて評価すること・・これこそが、教師の最大の任務だという。 その「ちょっと」のために、生徒はどんなに努力しているかしれないのだ。ほめるときには、思い切り大きくほめていいと。私は英語の教師だったから、発音についてうるさく言うことがあった。英文を読ませたことも多かった。ちょっと読むのがうまいかな・・と思える生徒に出くわしたときのことだ。忠告どおり、「君の英語はすばらしい。発音、イントネーション共に感心した」 このあと一週間ほどたって、再び同じ生徒に本を読ませた。何と、本当に英語がうまくなっているではないか。ちょっとよかった発音が、すごくいいものに急成長しているのだ。「うまい」と言われてから、本当に「うまく」なり始めるものらしかった。最初は、それは少しばかりの長所にすぎなかった。それを「たいして優れているわけではない」と受け取ってしまっては、その後の成長はあるはずはなかった。先輩の言うとおりだった。 祝福のときもそうだろう。素直に大きく祝福するのが一番いいのだ。あるいは身勝手な期待は、相手の負担となるばかり。激励しているつもりで、逆に相手を苦しめる。これについては特に念を入れて言っておきたい。甲子園の野球大会など、大きな競技会に出場する選手たちへの言葉に、それが聞かれることがよくあるのだ。「がんばってね。応援してます」 「しっかりね。テレビ見てます」 ここまでは、まあいいだろう。しかし、更にこんな言葉まで聞かれるのだ。 「折角、甲子園まで行くんだからね。せめて一勝してよ」 「勝たずに帰ってくるなんて、ごめんだよ」 言ってる本人は、励ましているつもりだからなおさら始末が悪い。「絶対、優勝してよ。優勝しなければダメ。私たちが応援しているんだから」とまで、言う人もいる。言われる身にもなってみたことがあるのだろうか。励ましどころが、これでは脅迫だ。 期待が大きければ大きいほど、私たちは選手となる人たちに、自分の気持ちを強く伝えたいと思う。それは自然なことだ。しかし、私たちが期待することを許されるのは、せいぜい、選手たちが持てる力を全部出してくれることではないか。「勝て」 とまで要求する権利が一体どこにあるというのだろう。 「おめでとう!」という言葉が、こんな場合には最適だと思う。「大会出場、おめでとう!よかったね」で十分ではないか。そこまで来るのには、多分どのチームにも並々ならぬ苦難があったはずだ。それを克服して晴れの代表なのだ。とすれば、その時点で、すでに彼らは立派な一勝を挙げていることにならないか。 「どうしても勝つんだぞ」 などと言われる前に、彼らはもう立派な勝者なのだ。あえて一言、つけ加えるとしたら、やはり「いつものようにね」だろうか。「特別のことをしなくていいんだぞ。いつものようでいい」と。そのためには、何事にも「いつも」が、どこまで本当にできているかだ。 |