| 正月の一日は日のはじめ、月のはじめ、春の始め。これをもてなす人は月の西より東をさして満つるがごとし、徳もまさり人にも愛せられ候なり・・・。 今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。 (重須殿女房御返事)
日蓮聖人は、お正月一日はすべての事の始まりであるから、元旦を大事にしなさい。元旦を大事にする人は、徳もまさり、人々から愛せられる人となる。但し大事にするということは、正月のはじめからお題目を唱え、法華経を供養しようという心が大事ということです。つまり「 法華経の行者の祈りのかなわぬことはあるべからず 」 であるから、本年の招福や健康、平穏無事の祈りは、法華経の信心で捧げなさい。さすれば、法華経を信じる人には、幸福が万里より聚って来る、との教えであります。 二十一世紀初めの本年、南無妙法蓮華経と、唱え続け、子に孫に伝へ続けましょう。 注)─ は下記に解説
お経の中にある話で。ある人が象に追われ、古い井戸に落ちました。ところが有り難いことに途中でたれ下がっいる藤をつかまえ、ぶら下がることができました。井戸の底を見ると毒蛇がたくさんいて、口から火を吐いています。また、井戸の上では、白ねずみと黒ねずみが、代わる代わるに藤の根を少しずつかじっているではありませんか。いつ、毒蛇のいる底に落とされるか分かりません。ぶら下がつた人は、ただ恐れおののくばかりです。 そんな時、一ぴきの蜂が飛んできて一滴の甘い蜜をその人の口に落としました。その味の何とおいしいかったことか。自分の置かれている状態を全く忘れているのです。 この話は、すべて私たちの生きている姿をたとえたものです。井戸に落ちるということは、私たち人間が無常の三界に落ちることをたとえていますし、藤は私たちの寿命を表しています。黒ねずみは夜を、白ねずみは昼を意味します。変わる変わる藤をかじっているのは、少しずつ老いてゆく私たちの命のありさまを伝えています。下の毒蛇は私たちの三悪の火であり、蜜の味に執着するのは、私たちの五欲への執着をたとえています。 このお経は、私たちの人生の姿を面白いたとえで教えています。つまるところ楽しいこともたくさんありますが、その本当の姿は無常で、苦しみであるという教えであります。いつ死に至るか分からないのが人生です。死という文字が 「 一 ・ タ ・ ヒ 」 というカタカナから出来ているように、人生とは死んでみると 「 ひ と た び 」 なのです。 では一体、このような無常なる人生を、どのように生きたらよいのでしょうか。私の心に浮かんだものは、お正月のお節料理の 「 まめ 」と 「 こぶ 」 の教えです。そこから、一寸先はやみの無常な人生に対して、常にまめに、にこにこ笑い、喜んで生きたいという決意が起こってくるのです。 この決意は「 修證一等 」の修行と證( 悟り )とは別のものではなく、一つであるという教えにつながっていると思います。つまり、自分に与えられた仕事に、自分の持っているすべての能力を傾けて、まめに一生懸命励むときに「 證 」が、すなわち幸福そのもの、あるいは仏の世界があらわになってくるということです。 一生懸命になってまめに自分の人生( 仕事 )に励むことは、自分自身のためばかりではなく、他の人のためにもなるということです。魚屋さんが自分の仕事に励み、魚を売ることは、実は私たちにおいしく新鮮な魚を与え、食生活を豊かにします。電車の運転士さんが電車を運転して下さるからこそ、私たちは目的地に行くことができます。このように、自分の仕事に励むことは、実は、他の人びとに、無限の利益をもたらすのです。 また喜んで感謝して毎日生きていくことは、自分自身にとって精神的に豊かになるだけではなく、他の人をも豊かにしていくのです。子供は、あまり親のいうことは聞きません。しかし、親の姿をみて、それをまねて成長していくのです。親が常に、顔にほほえみを浮かべ、喜んで生きていれば、当然、子供が心の中に豊かな世界を誕生させます。いわんや、他の人の心の中にも自然と豊かな心がかもし出されてきます。 まめによろこぶ。平凡の中に宿る真理。平常心以外に仏教的というようなものがあるわけではありません。皆さま、「 まめ 」と「 こぶ 」 のお節料理を味わいつつ、新世紀の今年一年、まめによろこんで生きる決意を新たにしょうではありませんか!!
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