麻生圭子様 「電話が鳴ってるよ」あるとき、数回顔を合わせたことのある人が、私に呼びかけてくれました。ところが、携帯電話を取り出し、まさに耳にあてようとした途端、「嘘だよ」と、言われたのです。感音性の聴覚障害で、高音が聴こえない私は、携帯電話の着信音は聴こえないので普段、バイブレーターにしてあるのですが、その言葉を一瞬信じてしまいました。そうした事情を知っているがゆえの冗談でした。 その人自身はアメリカでの生活経験があり、ハンディキャップをジョークにすることが自然な接し方だという考えを持っていました。ですから、自分は差別をしていないということをアピールしたつもりだったようです。 もっとも、私の憮然とした表情を見て、それがハズレだと悟り、すぐに謝ってくれました。とはいえ、私の心のなかには不愉快が残りました。 また、私が落ち込んでいるとき、さほど親しくない人がアドバイスをしてくれたことがありました。そして、最後に、「頑張ってね」と、励ましてくれたのですが、「この人は、いったい私の何を知っていて、こんなことを言うのだろう」という気持ちを、私は拭うことができませんでした。 こうした人たちに出会ったとき、「ああ、ここにもまた、”神様 ”がいる」と、私は思います。自分のルールが誰にでも通用すると信じて疑っていない。つまり、他の人よりも自分を一段高いところに置いたものの考え方をしているからです。 「あなたのためを思えばこそ・・・・・」「敢えて言うんだけど・・・・・」などと、前置きをして、助言や忠告をしてくれる人の言葉を聞いたときにも、同じような気持ちになることがあります。 もし、心の底から私のことを考えてくれているのであれば、そのものズバリ単刀直入に言うのではなく、私自身が気づけるよえな言い方になるのではないかと思うんです。たとえばそれが直すべき欠点であっても、それを自分自身で実感できなければ、ほんとうの解決にはつながりません。気づくまでの時間を惜しまれてしまうと、一方的にその人のルールを押しつけられたように感じてしまうだけです。 決して悪気はなくても、確信に満ちた言葉は、心ない一言より罪深いものなのです。だからこそ、作詞をしたり、エッセイを書いたり、言葉を使って仕事をしている私は、自分の視点が高いところに登って、”神様 ”になってしまわないように気をつけています。 実際に、「歌詞に励まされました」「本を読んで、立ち直ることができました」といったお手紙をいただくことがあります。ですが、私の言葉だけでそうなったのではないと考えています。私は”神様 ”ではないのですから、受けとめてくれた人たちの人生を知っているわけではありません。その人たちが自身の経験や考え方のなかで活かしてくれたからこそ、言葉は効力を発揮したのです。いわば、きっかけや触媒のようなものであり、薬のようにそのもの自体が作用するわけではないからです。 とはいえ、私が作詞家だった頃に比べ、最近はずいぶんと直接的な表現が求められるようになりました。即効性が求められていると言えるかもしれません。 はたして、そんなに単純に癒されてよいのかと疑問を感じます。また同時に、人の言葉に左右されすぎているような気もします。簡単に傷ついたり、癒されたり、そんなことで大丈夫なのかと、こちらがいらぬ心配をしたくなるほどです。 生活をしていくうえでも、ふっと何かを考えるときでも、私たちは言葉を使っています。それだけに、頼りすぎてしまうところがあるかもしれません。 ですが、時として、言葉が必要のない場合もあるのです。私が結婚するときに「幸せにしてあげる」といった言葉を使うことはいっさいありませんでした。主人も私もそれぞれ、自分自身が幸せになるために結婚したのですから、そんなことを言うのはおこがましいとも思っています。それでも、自分が幸せだと相手に優しくできるので、円満な夫婦でいることができます。 たった一言で癒してはもらえない。たった一言で傷つけられたりはしない。これが私の基本的な考え方です。癒されたり、傷ついたりすることは、その言葉を自分がどうやって受け止め、消化するかにかかっています。ですから、自分自身をしっかりと持って、人の言葉で浮いたり、沈んだりしない気概を持っていたいと、私は思っています。 |