自分の気持ちに素直になるための大事なこと


塩田 丸男    


ちょっと街に出ても、外国人に出会わないで帰ってくるということがない。電車に乗 っても、異国の言葉が耳に飛びこんでくる。ほんとうに、国際化の時代なのだな、と思う。

外国の風俗、習慣、ものの考え方に接 して、戸惑うことも少なくない。だが、これはいいなァ、と大きくうなずかせられる ことも多い。その一つが、贈りものをする時に、「つまらないものですが・・・・・・」という日本古来のキマリ文句を言う人がめっきり少なくなったことだ。若い人たちの間では、 すっかり影をひそめたといってもいいだろう。

先日もテレビ局の若い女性ディレクターから素敵な“猫グッズ”をもらった。「一生懸命探したんです。きっと気に入っていただけると思っています。可愛がって 下さいね」とメッセージが添えてあった。私の猫好きを知っている人なのだ。ほんとうにうれしいプレゼントだった。品物もすばらしかったけれど、心を開いた率直なメッセージもよかった。賢くて、美人で、オープンマインドで、ほんとうに素敵な女性だと、私はそのディレ クターのことを妻にも自慢した。

謙遜は美徳であり、人間関係の潤滑油であることは認めるけれど、明治、大正、昭和 ヒトケタ世代までぐらいの日本人のそれは、ちょっと抑制しすぎじゃないかな、と私 はかねがね首をかしげていた。大事で大事でしようがない息子のことを「豚児」といったり、恋女房のことを「愚妻 」といったり、やり過ぎだな、と思えてならなかった。

そういう極端な卑下の習慣が、戦後の国際交流の進展によって消滅したのはほんとうにいいことだ。人が一人では生きていけない存在であることは改めて言うまでもない。さまざまな人々とのかかわりの中で、自分のいい位置を求めていくのが人間である。

問題は、その位置の求め方、きめ方だ。自分のことを言うと、私は子供のころから両親も呆れるくらいの自慢好きだった。自慢したいためにがんばる。目立ちたいために人一倍の努力をする。そういう性向が 極端だった。学校を出て、新聞社に勤めたが、すぐにつけられたニックネームが「ラッパ」だった 。自慢癖を「吹きまくる」と解釈されてつけられたものだった。自慢ばかりしている男は、たいがい周囲から爪はじきにされるものだが、私はそのわ りには憎まれなかった。それは多分、自慢もするかわりに、他人のことも褒めまくったからだろう。

謙遜、卑下は自分を低くすることによって相手を優越者にするわけだが、私の場合は 、相手をうんと褒めることによって、その優越性を認めたのである。
もっとも、時には失敗したこともある。「コラ、そんなに褒めるな。おれはお前の先輩だぞ。これぐらいのこと、軽くこなせて当たりまえだ」と大先輩に叱られた。なん でもかんでも褒めればいいというものでもないという教訓をこの時、得た。とにかく、自分自身を褒めるかわりに、他人のことはもっと褒めるというのが私のや り方で、おかげで「ラッパ」というような仇名をつけられながら、良好な人間関係を 保つことができたのだ(と、私は信じている)。

私は「嘘」というものに大変興味を持っていて、二年前には、嘘をテーマに一冊の本 を書いた。嘘についてのエピソードや学説などもたくさん調べたが、その中で非常に 面白いと思ったのは、〈人間は自分自身をもっともよく騙そうとするものである〉と いう言葉であった。この言葉を聞いて、すぐに私は亡き母のことを思い出した。

亡き母と書いたが生みの母親ではない。五歳の時からずっと私を育ててくれた継母のことだ。今はそんなことはないのだろうが、私の子供のころには「継子いじめ」という定番の ストーリーがあった。鬼のような継母に、可哀そうな継子がありとあらゆる意地悪をされるというもので、 絵本にもあったし、紙芝居にもあった。私の継母は、ほんとうに私を大事に大事にしてくれた。彼女が腹を痛めた子供六人は 一人も大学に行けなかった貧乏暮らしだったのに、私だけが行かせてもらえたのは、 彼女の必死の懇願によるものだと後日、父から教えられた。

私だけは着るものでも食べるものでも特別扱いだった。それは、継子いじめをしてい るとかりそめにも親戚の口うるさい連中や近所の人たちからうしろ指をさされないよ うに、との気づかいからだったろう。私としては、ありがたいことで、心から感謝したけれど、継母の心労ぶりを見ている と気の毒でならなかった。もう少し自然であってもいいのじゃないかな、とも思った。こういう言い方は酷だし、失礼でもあるが、あえて言うなら、彼女は、模範的な後添 えであろうと努力するあまり、自分自身を騙していたところもあったのではないか。 すこしぐらいはうしろ指をさされてもいいからもう少し自分に正直であったほうが楽 なのではなかったか。そんなふうにも思える。

他人からそしられたくない、褒められたい、と誰だって思う。しかし「人の口に戸は立てられない」と言うように、百パーセント、悪口からまぬが れることは不可能なのだ。他人から悪口を言われないように、と必死に努力して、自分をねじふせてしまうより は、多少の悪口は聞き流して、自分のありのままの姿を人に見せたほうがいいのでは 、と今の私は考える。もっとも、時代が違うのだから、明治生まれの私の継母にそんな注文をつけたって無 理だろう。彼女は彼女なりの人生観で、一生懸命、夫につかえ、継子である私を大事 に育て、忍耐強く生きたのである。

批判がましいことを私の口から言えた義理ではない。しかし、一般論としては、昔の日本人は、「男は三年に片頬」と言って、人前で笑顔 を見せることをつつしんだり、感情を素直にあらわすことを嫌う傾向が強かった。自分に嘘をついていたわけである。それも、他人からとやかく言われたくないという気持ちが強かったからであろう。

〈自分の気持ちに素直になる〉ということは〈自分に嘘をつかない〉ということにほ かならない。そして、そのためには、必要以上に、他人の思惑を気にしないことでは ないだろうか。〈自分に素直に生きる〉ためには、まず自分というものを正確に分かっていなくては ならないが、これが意外にむずかしい。

「人間って、自分のことは案外分かってないものなんですよ。それなのに、自分の体 のことは自分が一番よく分かっている、なんてエラそうに言う患者がいるから始末が 悪い」と知りあいのお医者さんに言われたことがある。「あなたは自分の耳の穴をのぞいてみたことがこれまでに一度でもありますか、とそういう患者には言ってやるんですよ」彼は耳鼻科の先生なのだ。たしかにその通りで、人間は他人の姿はよく見るが、自分 の体をしげしげと見ることは少ない。鏡で見る姿は左右反対だ。正しく自分を観察す ることは改めて考えてみれば、大変むずかしいことなのである。

音楽の才能なんてまるでないのに、自分だけはあると思いこんで、なにがなんでも歌 手になりたいとムダな人生を過ごしている者がいる。そういうのは〈自分に素直に生きている〉のではなく、自分の思いこみに溺れているだけだ。他人のほうがより客観的に、より冷静に観察しているものなのである。だから他人の声に耳を傾けることが自分自身を正確に知るための大きな手がかりとなる。

つまり〈自分に素直に生きる〉ために〈他人の言葉をまず聴くこと〉が必要なのだ。 〈他人の悪口をあまり気にしないこと〉〈他人の言葉をよく聴くこと〉一見、矛盾するようなこの二つのことをうまく調和させることが、〈自分の気持ちに 素直になる〉ための条件だと思う。


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