宗 教 的 教 育
マネをする・・・ということは、悪いことであろうか・・・・・。 戦前は図画の時間などは、お手本のまねをして描きなさいと教わったと言います。戦後になって、急にまねはいけませんと言われだしたように思います。 ともかく、現在は、まねを否定した教育を受けてきています。作文(綴り方)は ・ ・ ・思った通り書きなさい。絵を描くときは、・ ・ ・ 見えたままに描きなさい。そんなふうに教えられているのだ。思ったままに書ければ、芥川賞や直木賞は確実に取れるだろうし、見たままに描ける技術を持っていれば、まさにマチスやピカソのクラスである。「思った通り」「見た通り」に書き、描くのは危険だ。 「思った通りに書きなさい」と教えた教育は「思った通り」が一番すばらしいという価値観にもとずいている。子どもは純真だという神話があって、その純真な子どもが見たまま、感じたままに表現された作文なり絵なりはすばらしいという考え方である。 たしかに子どもは純真である。けれども、純真だからいい・・・・とはいえないのだ。 また、子どもは正直である。しかし、ほんとうはその正直が困るのである。 もちろん、思ったまま、感じたままを表現してよい場合もある。しかし、思ったまま、感じたままを絶対に言ってはいけない場合もあるのである。そこのところを教えてこなかったから、子どもたちの間に「ゆがみ」があるように思えてならない。 わたしの言いたいことは、簡単にいえば「マネのすすめ」である。 書道をやっている人が語っていた。最初は徹底した模擬である、と。はじめから独創的で、いい字が書けるわけがない。しっかりとまねをして、まねをしつくしているうちに、いつか自分らしい字が書けるようになるのだ。 落語家にしても同じである。落語家の場合、師匠は弟子を教えないという。弟子になった者がやらされるのは、掃除だとか、使い走りとか、細々とした雑用ばかりである。だから、弟子は師匠の芸を盗むのだそうだ。師匠が手をとり足をとりして親切に教えてくれるわけではないから、弟子のほうから、なんとかして師匠から学ぶよりほかないのである。その学び方は、まねをすることだ。師匠の身ぶり、口ぶりをまねるのである。まねてまねて、徹底してまねしつくすのである。そうすると、おのずから芸が自分のものになる。それを「盗む」と表現しているわけだ。 「学ぶ」ことは「まね」をすることだ、じつをいえば、そもそも「学ぶ」という単語が、「まね」から派生したことばなのである。 『岩波・古語辞典』には、まなび〔学び〕《マネ(真似)と同格。主に漢文訓読体で使う語。教えられる通りまねて、習得する意。類似語ナラヒは、繰り返し練習することによって身につける意。・・・・》とある。 “学習”の“学”はまねをすることて゜、“習”はそれを繰り返すことである。それが、本来の日本語の意味なのだ。 だから、まねをしてよいのである。いや、まねをしなければならない。 もちろん、悪いまねはいけない。しかし、子どもにはお手本を示してやって、そのよいお手本のまねをさせるべきです。 |
| 作文 ・ 綴り方にしても、美しい文章を示してやって、それをまねて書かせたほうがよい。「思ったままに」書くのは、ちょっと聞くとすばらしいことのようであるが、それは動物的である。それだと、他人に対する思いやり、気遣いというものが教えられないのではなかろうか・・・・・。他人をいたわる気持ちは、教育によってはじめて身に付くものである。教えないでほっておくと、弱い者をいじめて平気な人間になる。「なぜ、いじめるのか!?」と問うと、そのような子は、「だって、面白いんだもの・・・」と答えるであろう。素直な気持ちをいえば、弱い者をいじめたときは面白い。それではいけないのである。だから、いいお手本のまねをさせなければならない。というより、子どもたちはすでにまねをしているのである。 子どもは親の背中を見て育つ、といわれている。子どもたちは、親を見て、知らず知らずのうちにそのまねをしている。親はしたがって、自分が子どものお手本であることを、しっかりと認識していなければならない。たんに認識しているだけではダメで、もっと積極的にすばらしいお手本を示してやる覚悟がなければならない。それが宗教的教育である。私たち日本人は、この宗教的教育をあんがい蔑ろにしてきたようだ。子どもの教育を、学校の先生、つまり他人まかせにしてきたきらいがある。それではいけない。子どもの教育は、親が第一の責任者である。ましてや宗教的教育は現在の日本では親以外の者ではできないのである。私たちは、そのことをしっかりと自覚しておくべきである。 たとえば、会社でいやなことがあって帰ってきた父親。その心の憂さを晴らすべく、やけ酒を飲むかもしれない。たまにはそのようなことがあってもよいとは思うが、いつもいつもやけ酒を飲んでいては、子どもたちはどう思うか・・・・。気が沈むとき、悲しいとき、憂きときに、じっと仏壇で手を合わしている父親がいてもいい。座禅をする父親であってもいい。そんな父親を見て育った子どもは幸福だ。子どももまた、悲しいときに、静かにご先祖様に手を合わせて、心を鎮めるにちがいない。 道を歩いていて、暴走するオートバイに轢かれそうになったとき、我々は思わず「バカヤロー」と怒鳴りたくなる。でも、そんな時静かに相手に手を合わせる父親・母親がいたら、子どもは安心するにちがいない。子どももまた、怒りの気持ちを手を合わせることで、心を鎮めるすべを学びとるはずであろう。 宗教的教育の原点は、マネにあると思っている。子どもたちにマネをさせるような、そんな生き方をしたいものである・・・・・・・。 |